ドイツ卵目愛好家訪問記 (4)

岡田 暁生


昨晩の興奮がさめやらぬまま、十七日の日曜朝になる。もちろんすべての店舗は日曜はクローズドなので、午前中は美術館に行ったりして時間をつぶすが、何やら落ち着かない。今日会うことになっているのは、ギュンター・ゲルラッハさんという南米専門の方。以前シンプソニクティス・ギゾルフィの飼育法のことで何度かメールのやり取りをした人である。ドイツ屈指の南米年魚愛好家クリスチャン・ロスコップ氏の友人でもある(残念ながらロスコップ氏とはコンタクトをとらなかった)。午後一時に御宅を訪問することになっている。彼が住んでいるのは、私が昔下宿していたオリンピック村(有名なサッカーチーム、バイエルン・ミュンヘンのホームグラウンドがあるところ)の近くだ。
ギュンターの家は閑静な住宅街のアパートである。ギュンターは俳優のハリソン・フォードによく似た大変な紳士。年の頃は四五才くらいだろうか。ミュンヘンの国立植物園勤務で蘭の研究をしている。彼が今年のDKGのコンペに出品したシンプソニクティス・ギゾルフィは二位をとったそうだ。そして・・・台所から出てきた奥さんは・・・どう見てもドイツ人には見えない。何と彼女はベネズエラ人だったのだ。ギュンターは仕事柄、毎年最低一ヶ月は南米に調査旅行に行くのだそうである。これまでにベネズエラ、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ボリビアなど、たいがいの地域に行っているらしい。奥さんとは調査旅行で知り合ったらしく、奥さんも植物学者だとのことであった。旦那さんはききとりやすい正確なドイツ語で、奥さんはべらんめえの早口のスペイン語で、互いに相手に話しかけるのだが、それでも夫婦の会話が成立しているのがおかしい。おまけに九才のぼっちゃんは、お父さんからはドイツ語で、お母さんからはスペイン語で話しかけられるのだが、彼は両方わかっているみたいだ。
広々した地下室を温室にしていたディルクとは対照的に、アパート住まいのギュンターの飼育設備はごくつつましいものだ。玄関から居間へ通じる廊下に巾1.2メートルくらいの木製の棚が置かれ、そこに二〇リットルくらいの水槽が八つ整然と並べられている。これが繁殖水槽のすべてだ。卵目愛好家の家で必ずお目にかかる細々とした大量のプラケなどは一切ない。それもあって、見た目にいかにも美しい。私が土曜に訪ねたショップにあったベタ用の水槽棚によく似ている。おまけに稚魚も繁殖採卵もすべてこの八つでやりくりするとのこと。これで十五種類ほどの卵目を維持しているというから信じられない。

 シンプソニクティス・アンテノリーが群泳する。植木鉢の産卵床が豪快。

 アンテノリーはギュンターが二〇年前に最初に飼育した思い出の魚だとか

 玄関の廊下に置かれた水槽棚。プラケの類はギュンターの家には一個もなかった!
時間的にも空間的にも自分の限度というものをしっかりわきまえ、自分のペースを熟知し、絶対に無理をせず、しかし利用できるものは最大限に活用しているからこそ、こういった飼育が可能なのだろう。正直、自分自身がいかに多くの「無駄」と、同時に多くの「無理」をしているかにはたと気づき、内心赤面する思いだった。「節制」と「規律」と「冷静さ」 − これまた典型的なドイツ人気質だ。一見したところ実につつましい設備だが、実はこれでやりくりするというのは、きわめて高い飼育技術と飼育モラルをもった人にだけ可能なことなのだろう。</p><p>この廊下に置かれた棚に見とれて、いつまでたっても動こうとしない私に、「まずは居間に入って一緒に昼食をしよう」とギュンターが声をかける。細かいことは後で観察することにして、居間へ移動。ワインのカラファが置かれたきれいな食卓の傍には、巨大な一二〇センチの水草水槽がある。増えた魚はすべてここに入れるとのことである。ギュンターに言わせると、「この水槽は普段はもっともっときれいで、家を訪れた人は誰もが驚いてくれるほどなのだけれど、一ヶ月ほど前に調子が崩れてしまって・・」とのことであるが、それでも十分に美しい。ここの王様は七センチ以上あろうかという数匹のリヴルス・マグダレナエ。勝手に増えているそうだ。正直この魚がこんなに美しいとは、今まで知らなかった。以前はここの主は十五センチのニャトレビアス・ホイグナイだったそうだが(それはそれは美しかったらしい)、やはり繁殖が難しく(繁殖水槽に最低は六〇センチが必要とのこと)、数代で絶えたそうである。それでもこの魚を数代継続するというだけで私には驚きだったが。

 ギュンター夫妻と食卓と一二〇センチ水槽。「家族」のシンボル。
だが、そんなことより何より、ここでもまたしても強烈に印象づけられたのは、ギュンターの「人柄」、そして家族の生活の中での卵目の「ありよう」だった。ギュンターはとにかく穏やかで知的でかんじのいい紳士である。そして − 昨日会ったディルクとアクセルもそうだったが − 「マニア」の臭いがまったくしない。「マニア」独特の、入れ込みすぎるが故の息苦しさ、仕事と趣味の価値関係の逆転、目を血走らせたような近視眼的なところ、急きたてるようなイライラ、偏狭さ、そういったものが一切ない。一言で言えば、絵に描いたような「人品のいい人」というかんじ。恐らくこういう人柄の人だから、月曜から金曜まではきわめて勤勉かつ律儀に自分の仕事をこなし、そして週末は家族や友人をもてなしたり、メダカの世話を一家でやったりすることで鋭気を養うのだろう。典型的なドイツの市民生活だ。「趣味」ということが、きちんとした「豊かな生活の一部」として、あるいは「よき教養」として、世間から公認されているという印象。この「趣味」が、ある人は園芸であったり、ある人はサッカーやハンドボールであったり、ある人はオペラ通いであったり、そしてある人はメダカ飼育であったりするのであろう。「仕事」を含む社会生活と家庭と趣味とのバランスを何より尊ぶ、広義の「職業モラル」の意識が徹底していると言えばよいか。恐らくこういう人は、家庭や趣味を犠牲にしてまで仕事に打ち込んだりもしないし、あるいは仕事に支障をきたすほど趣味に入れあげたりもしない、そういうバランス感覚がきわめて敏感なのだろう。そしてそういう日々の「家庭生活」の中心にあるのが、メダカ飼育なのであろう。食卓の傍らに堂々たる水槽が − あたかも家庭のシンボルのように − 置かれていることが、それを何より雄弁に物語っているようだった。驚きだったが。
何はともあれ、ギュンターが作ってくれたガチョウのロースト(おいしかった!)を頂きながら、メダカ談義に花を咲かせる。何と彼は、私が訪れた次の日から、パナマへ四週間の調査へ出かけるとのこと。留守中の魚のケアは奥さんがするらしいが、それでもあまり無理はかけられないので、魚はミニマムの状態にまで減らしているとのことだった。調査旅行はもちろん専門の蘭の研究のためであって、これまで魚を採集したことはないが、それでも色々な種類が現地で泳いでいるところを見ているようだ。例えば「シンプソニクティス・チャコエンシスは現地では海水魚のような青に見える」とか、「チャコエンシスがいるボリビアの『チャコ』というところは猛烈に暑く、ほとんどいつも気温三〇度以上だが、南から寒風が流れ込むと一気に十度に下がる」とか、「リヴルスは泳ぎ方が独特で、尻ビレをくるんとひるがえすようにしてターンするので、上から見ていてすぐにそれと分かる」とか「スワローキリーがいるあたりはコロンビアとの国境付近で、あちらから時々ゲリラが逃げてきたりして、かなり危ない地域だ」等々。
特に興味深かったのは、リヴルスの生息環境についての話である。リヴルスが見られるのは、雨季に出来る巾一メートル足らず、深さが十五センチもないような、ごく小さな流れだそうで、水草はまったくなく、白い砂があるだけ。「コカコーラのような」泥水だそうである(奥さんと二人で何度も「コカコーラ」と繰り返していた)。こうした小さな流れは、もっと大きな激流へと通じているので、そちらの方へ流されている個体もあるだろうし、また乾季にはそうしたもっと大きな川に移動しているのだろうとのことであった。またリヴルスは非常に敏感な魚で、ちょっとした足音の震動や人影ですぐに逃げてしまうので、あれを採集するのは相当難しいだろうとも言っていた。
昼食が終わると、いよいよ飼育方法の細部観察である。昨晩訪れたディルクもそうだったが、どの水槽にもすべて水草があふれるほど入っており、スポンジ・フィルターがとりつけられている(ディルクもすべての水槽でスポンジ・フィルターを使っていた)。現在いるのはフルミナンティス、アンテノリー、ギゾルフィ、リヴルス数種など。そしてネオロリカリアの稚魚も十匹ほどいた。ギュンターは「南米限定」なのだ。そして・・またしても同じ水の色。しーんとして物音ひとつせず、澄んでいて、エアレーションしてあっても動きがない。

 ネオロリカリアの繁殖水槽。左上にへばりついている魚が見えるだろうか?

 リヴルスの繁殖水槽はすべて砂を敷き、水草が密集して植えられている。

ちなみにアクセルはRO水をそのままぶち込み、ディルクは水道水で割ってしばらく置いたものを用いると言っていたが、何とギュンターはGH15の水道水をそのままぶちこむ(!!)そうである。水換えは一から二週間に一度、半分くらい換える。RO水は面倒だし、水道水で何の問題もなく飼育できるとのこと。またしてもPHやGHは何の関係もないと実感。それにしてもGH15の水をぶちこんで、それでいて軟水のような透明感のある水にしているあたりが驚異。なお二〇リットル水槽とはいえ、日本のM水槽よりはるかに高さが低く、代わりに底面積が広くとってある。これまたディルクの使っていた水槽と同じだ。そして採卵用には植木鉢を使っているのがなんとも豪快。半分くらいの水槽には、繁殖用水槽なのに砂が敷かれ、エキノドルスが茂っていたのも印象的。また照明にはハロゲン・ランプが使われていて、特にリヴルス・レクトカウダータスの色が非常に美しく映えていた。このリヴルスは素晴らしくきれいだったが、なかなか繁殖しないそうだ。昨日のディルクとアクセルは、稚魚の餌には最初の一週間はマイクロワームを、次にブラインに切り替え、成魚には赤虫とボウフラとショウジョウバエ(お奨めだった!)をやると言っていたが、ギュンターは成魚の数が多いときはディスカス・ハンバーグをやるそうである。
だが何と言ってもギュンターにはピート保管のことを尋ねなくてはならない。彼は以前私に、粘土を使って採卵することを教えてくれた人なのだ。このやり方を「発明」したのはクリスチャン・ロスコップで、実際、現地で南米年魚はほとんど例外なく粘土質の水たまりに住んでいるらしい。
ギュンターに見せてもらったのは、薬局で健康用品(飲んだりするらしい)として売られている中国産のきわめて細かいパウダー状の砂(黄砂か?)った。恐らく細かく砕いて、もぐるときに魚が傷つかないように工夫すれば、園芸用の日本の赤玉土などで代用することが可能だろう。この砂と粉状ピートを1:2くらいの割合で混ぜて採卵するらしい。乾燥中のギゾルフィのピートも見せてもらったが、まさに「乾いた泥」だった。あれを「現地で乾季に掘って採集してきたものだ」と言われても、誰も疑わないだろう。そして湿度はかなり乾いている。何十日もカンカン照りが続いて干上がった泥のイメージだ。ごくわずかの湿り気しかない。このあたり、現地を肌で知っている人ならではだ。ギュンターのみならず、ドイツの南米年魚愛好家の多くは、砂を使って、出来るだけ乾かし、三〇度くらいで保管するようにしているとのことであった(一般に半年以上の休眠が必要とされているアンテノリーも六週間くらいで発眼してくるらしい)。

 玄関の水槽棚はハロゲン・ランプで照明されていた。すべて自作。非常に魚が美しく見える。

ギュンターのピート保管と言えば、自作発泡スチロールケースが見ものだった。サーモスタットつきのヒヨコ電灯内蔵(?)のケースなのだ。こういうものを、ごく普通の愛好家が、日曜大工感覚で自作してしまう感覚も、いかにもドイツ人らしいと思った次第。ドイツ人は既製品を極度に嫌って、自分の大切なものは何でも自分の手でじっくり作りたがるから。「家」でも「庭」でも「食事」でも「家具」でも何でもそうだ。

 ヒヨコ電灯内蔵ハイテク自作発泡スチロールケース。

最後にギュンターが案内してくれたのはベランダ。ここには夏の間(五月から十月くらいまで)だけ「稼働」する一五〇センチの大水槽が、まるで干上がった現地の沼よろしく置いてあった。大きなスポンジ・フィルター、そしてこれまた大きめの鉢(エキノドルス とかを植えていたのだろう)が数個。夏の室内はブラジルのシンプソニクティスにはいいが、ニグリ等のオーストロレビアスには暑すぎるので(!?)、後者は夏はこの屋外水槽で飼うのだそうだ。これまた限られたスペースを最大限に活用する知恵だろう。

 ベランダに置かれた一五〇センチ水槽。
この大きさでドイツの夏の涼しさであれば、どんなメダカでも勝手に自然繁殖するだろう!
それにしてもギュンターは何度も「オーストロレビアスは高温に弱い」と言っていたが、そう言えばギムノヴェントリス等は私のところでもいつも冬の方が調子がよかった。なお、この大水槽に屋内水槽の水草をいくつか放り込んでおいたら、そこに卵がついていたらしく、夏の間にリヴルス・マグダレナエがいつの間にか大量に泳いでいたそうだ。 帰り際にギュンターがドイツ語で書いた蘭の論文の抜き刷りをくれる。蘭の花粉を媒介するハチと蘭との共生が、彼の研究テーマらしい。ハチに話が及ぶと、すぐに奥さんが奥から、そのハチの現物の標本をもってきてくれた。絶句・・・。全身エメラルドのような緑のメタリックに輝いている。思わず「こんなハチも飼育してみたいなあ、ハチつきで蘭の飼育が出来たらどんなに素敵だろう・・」と溜息が出た(刺されたら恐ろしく痛そうな針をもっていたけれど)。

 なんと美しいハチ!右の黒いヤツはクモを捕食するハチ。

それにしても思うのだが、当地で会った三人の愛好家は、それが卵目であれ蘭であれ、決して「それだけ」を見ていない。いつも大自然の中での本来の「環境」、そして「共生」ということを、当たり前のように考えている。「当たり前のように」というところがミソだ。あまりに彼らにとっては当たり前すぎて、こちらがうっかりしていると気づかないほど当然のように、彼らはそれを考えているのだ。彼らの飼育法の細かな優しさ、穏やかさ、マニアの臭いのなさ、人間の風通しのよさのようなものは、きっと「大自然」というものを直接知っているからこその謙虚さなのだろう。「メダカは大自然からの授かり物(預かり物というべきか)」という意識が徹底しているようだ。「自分が飼っているのではなく、自然から預かっている」という感覚。「どれだけ上手く飼育しようが、所詮自然にはかなわない」という謙虚さ。「人間に出来ることなど所詮たかが知れている」という意識。 そう言えばドイツは世界に冠たる環境保護大国である。恐らくドイツ人の愛好家と我々の「差」とは技術の細部ではあるまい。それは「趣味」とか「自然観」といったものを取り巻く生活・社会・文化・教育・歴史などの差なのだろう。もう少し具体的に言えば、ドイツでは卵目飼育というものが、十九世紀以来の博物学の伝統の上に位置する「教養」と考えられているのであろう。
  帰り道に昔の下宿付近を散策した。オリンピック村の周囲。
バイエルン・ミュンヘンのホームグラウンドがある。
そしてことこの点について言えば、昨晩もそう考えたが、しみじみと「ドイツは先進国だなあ・・」と、心からうらやましく思わずにはいられなかった。後ろ髪を引かれる思いではあったが、ギュンターは明日からパナマ旅行。来年のコンペでの再会を約束して、四時ごろにおいとまする。玄関を出てしばらく歩いてから、突然オーバーを忘れてきたことに気がついて、慌ててとりに戻る。余程帰りたくなかったものとみえる。
   昔の下宿先があったアパートの入り口。十二年ぶりの再訪。