ブラジル採集記

ディディエ・ピレット著 (翻訳 KCJ 岡田 暁生 氏)

ジュリアーノと一緒に私は、6日間で4500キロ以上を走破した。ミナス・ジェライス、ゴイアス、トカンチンス、バイーア−私は何度も温度とPHと硬度を計測した。まず報告しておこう。温度は非常に高く、夕方で31度から35度。朝は25度から27度。水面と水底の水温差は想像していたよりずっと小さく、夕方で2度ほど。導電率はほとんど常に180μs以下。PHは7以下。ただしグアナンビにあった池では、一つだけ例外があった。導電率が1200μsでPHが7.8!ところがこの小さな池の隣りの池はもっとマトモで、導電率78μs、PH7!種を明かせば、この池は家畜の水飲み場になっていて、彼らの排泄物がこの導電率の原因だったのである。
我々は無数の池で、年魚も非年魚も含め、多くの魚を採集した。私は二種類のホウネンエビの仲間すら見つけることが出来た。私は魚のビオトープについて多くのことを学んだ。この旅こそは、まさに私が求めていたものであった。せわしない場所の移動は少し疲れるものではあったが。次回はもっとゆったりしたペースで、一つの池にじっくり時間をかけながら、ブラジルで旅をしたいものである。

ブラジルへ

2003年1月29日の朝。私はわくわくしながらコニャック駅の改札口にいた。これがブラジルへの冒険旅行の始まりだった!コニャック、パリ、マドリッド、リオ・デ・ジャネイロ、そしてベッロ・ホリゾンテ。そこではジュリアーノのガールフレンドのクリスティーナがとびきりの笑顔で迎えてくれた。28時間の旅。もっと早く行く手段もなくはなかったが、これが一番安上がりだったのである。
クリスティーナはフランス語を話す。彼女は大学の生物学の教授だ。ジュリアーノは医者で英語を話す。私はと言えば、ポルトガル語を二言三言知っているだけで、私の英語は「very bad」。これは私にとって最初の魚の採集旅行である。第一の目的は私のお気に入りの魚たちのビオトープを調査すること、そして熱帯ビオトープの環境に少しでも私の水槽を近づけることである。第二の目的は、可能なら何か魚を採集し、あわよくばブラジルのホウネンエビも見つけることだ。後者はブラジルではほとんど研究がなされていないという。

南米年魚について

採集の目的であるシノレビアンテの仲間は熱帯ブラジルのほとんどすべての場所に生息している。この仲間は乾季と雨季が交代する環境に適合しており、アフリカのノソブランキウスと同様、水底の泥の中に生みつけられた卵の形で乾季をやり過ごし、雨が降ると稚魚が孵化し、数週間で成魚になって、1ヶ月もしないうちに産卵を始めるのである。

大旅行

ジュリアーノが私に提案したのは、ミナス・ジェライス、ゴイアス、トカンチンス、バイーアという四つの州を横断する旅である。よい道もあれば、悪い道もあり、困難な小道もあれば、最悪の道もある。ブラジルで雨季にだけ沼が出来る地域はほとんどすべてカバーする旅だ。今回行かなかったのは熱帯地域(最近ではほとんど調査されていない)と海岸寄りの地域以外はすべて行ったことになる。

金曜は休息。ジュリアーノは親切に自分のアパートへ私を招待してくれた。彼が小児科病院で働いている間、彼の使用人が世話をしてくれた。イラセマはまるで子供を相手にするように、私の面倒を見てくれる。彼女は市場まで私を連れて行ってくれた。市場は、古い街ではどこでもそうだが、街の中心にある。これは奴隷時代の雰囲気をとどめている大きな建物で、無数の商売人たちが自分の店を開いている。もしすぐにこの街を立ち去るなら、真っ先に見るべきはこの市場だ。特に客と売り手の駆け引きは見ものである。(私が住んでいる)コニャックでも、世界中のどこでも同じだが、人々は市場に同じ理由から集まってくる。合って、話して、交換して、買うためだ。それは同じなのだが、街ごとに様子はまったく異なっている!見知らぬ言葉、見知らぬ匂い、好奇心をそそる食べ物、ブラジルの果物−これらだけでもここを訪れる値打ちがあるだろう。ここには熱帯魚ショップさえ二軒あった。

出発

ジュリアーノは土曜の午前で仕事を終わり、10時に我々はベロ・ホリゾンテを出発した。 街を出るときはジュリアーノが運転したが、すぐに私が交代することになった。一言もフランス語が話せないブラジル人と一言もポルトガル語が話せないフランス人が、一台のプジョー206で押し合いへし合いしながら、うまく意思疎通することなど出来るのだろうか?それが−今だから言えるが−ちゃんと出来たのだ!ハンドルを握った私だが、危険だらけの道、おまけに私は左脚にハンディがあってクラッチがうまく操作できず、なかなか厳しい状況。だが私はハンドルを渡すつもりはない。ブラジリアの出来たばかりの沼で極彩色に輝くボイトナイ、トカンチンスの草が生い茂った沼でメタリックな青で縁取られたコスタイ、バイーアの泥だらけの沼の燃えるような色をしたフルミナンティス、ミナス・ジェライスの白っぽい沼にいる素晴らしいマグニフィカス!!私の頭の中は想像でいっぱいだ。「ドタンバタン!」−まるで車の中で立て続けに爆発が起きたみたいだ。私はブラジルの道の特殊性が分ってきたばかりの初心者なのだ。ジュリアーノはしかめ面をして、彼の車のために気をもんでいる。私は注意を二倍にして慎重に運転を続ける・・・。「ああ、あのエレガントなセミオケラータス・スペクトロレビアス。ラコルティ。ノタータス・・・」。

最初の採集

直線で出発地から350キロのところにやってきた。ミナス・ジェライスの東の境に近いところである。ジュリアーノが最初の採集を試み、私が最初の教訓を得たのがここだ。ジュリアーノが採集道具をトランクから出す。革のハーフブーツ、ズボンの脛当て、1m×0.5mの金属の枠で出来た網。彼は素早く装備を整える。彼は網を沼につけて、沼の真ん中から岸辺に向けて網を押す。いるのはオタマジャクシだけだ。装備を外しながら、彼は手と足をアルコールで消毒する。私は何とか最初の水質計測を終えることが出来た。13時30分の水温が34度。μs19でph5。50キロ先の沼でもう一度停車したが、こちらはμs6でph5だった。ジュリアーノは小さくて可愛い黄色のヘミグラムス(Hemigrammus)の一種を捕まえてきた。すぐに放してやる。我々の最初の採集は一匹の卵生メダカも採れずに終わった。しかし学んだことは多かった。

ブラジル風シャワー

最初の一夜は安ホテルで過ごした。シャワー以外は快適。これはブラジルで非常に普及している特殊性と見える。つまり私をひどく不安にしたのは、お湯の配線なのだ。絶縁されていない電線がシャワーの出口から出てきて、湿った壁へと消えているのである・・・。この電気シャワーは電気椅子を連想させる。まさか人殺しが出来るほど強力ではなかろうが、十分に危険だ!

ボイトナイを探して

2月2日の土曜。朝早くに出発する。シンプソニクティス・ボイトナイを探しながら、ブラジリアの東側に沿って回る。私は道端の傍に沼がないか目を凝らす。ジュリアーノは何度か採集を試みたが、成果なし。採れるのはヘミグラムスだけだ。ここが干上がることのない恒常的な沼である何よりの証拠である。ブラジルは広大だが、シンプソニクティス・ボイトナイはほんの少しの沼にしかいないのだ。おまけにそれらの生息地の沼のいくつかはブラジリア市を建設する際に破壊されてしまった。何度か停車するが、卵生メダカは一匹も採れない!私は相変わらずPHと導電率を計測して、自分を慰める。ゴイアス州のこの地域でも水は軟水でPHは低い。朝の9時から10時で水温は25度ある。我々は矢のように北を目指す。目的地はノヴァ・ローマ。私はまさにここで採集された魚を自宅で飼っているのである。シンプソニクティス・ノタータスである。

最初の卵生メダカとホウネンエビ

この地点への到着は印象的だった。 低い木が多い茂った森を出ると、急に広々とした草原が広がっていた。我々が走っている道は高架道路である。道の右手にある最初の沼で停車する。我らがキャプテンが採集をしている間、私は肩にカメラを掛け、右ポケットにPHメーターと伝導率メーターを入れ、温度計は左手に握り締め、右手にはプランクトン・ネットを持って、忙しなく労働する。14時。水温は水の表面で32度、水底で25度だ。PH6.4、導電率67。泥だらけのカフェ・オーレ色の水をすくうと、興味深いホウネンエビの一種が採れた。このエビはフォルマリンに漬けて、ブラジルの科学者およびフランスの専門家Nicolat Rabetに献呈する予定である。
彼の初見によれば、これは「Dendrocephalus goiasensis Rabet&Thiery 1996で、ゴアイスでの二つめの採集例。この種はコスタによって採集されたが、この一箇所でしかこれまで知られていなかった」。しかしながら私のホウネンエビ採集は、決して卵生メダカ採集にとって吉報とは言えない。なぜならメダカに取って食われてしまうだろうホウネンエビが、メダカと同時にいることなど、まずありえないからだ。実際、オタマジャクシしか採集できなかったジュリアーノが失望して戻ってきた。いまだに卵生メダカの影も形も見えないのである。だが何年か前にオランダの採集隊が、ここでシンプソニクティス・フラメウスとシノレビアス・グリゼウスを採集しているのだ!ジュリアーノは湿った牧草地の方へ出かけていく。夕立の雷が来る直前、ジュリアーノが戻ってきた。彼はシンプソニクティスのオスを採集してきた。恐らくフラメウスである。

北端で

ゴイアス州を去り、トカンチンス州に隣接したブラジル北部へ向かう。我々の目的地はポルト・ナシオナル。直線距離で400キロだが、道路で行くとその倍かかる。チェラド(Cerrado:ブラジルのサバンナ)がいつまでも続くが、少しずつ植物は緑になり豊かになっていく。アマゾンからはまだまだ遠いが、ゴイアスよりはここの方が湿度が高いのだ。このあたりは貧しく、ほとんど住む人もいない。デコボコの道は最高で25キロしか出せない。我々はきっかり時速22キロで走る。ジュリアーノは行程の三分の二をドライブしたことになるが、彼が運転したのは最もひどい道のところだ。夕方の食事とホテルは本当にありがたかった。

採集禁止!

2月3日の9時半、我々はトカンチンス河を横切り、10時にはもうジュリアーノは採集を開始した。私は車を見張る役。ジュリアーノがまたいで行った柵に、ポルトガル語の標識があるのが見えた。「PROIBIDO CASSA PESCA(釣り禁止)」−私でもすぐに分かった。我々は許可を得るために農家の住人を探すが、雌鶏と黒ブタしか見つからない。ジュリアーノが住人が戻ってきたときの不測の事態に備えて、何やらティッシュペーパーに置手紙を書いた。だが私は不安で仕方がない。私は恐怖におののきながら待っていた。この土地の所有者が荒れ狂って戻ってきたらどうしよう!私が何を言っても彼は耳を貸さないだろう。私はポルトガル語が話せないのだから。私は最悪の事態を覚悟した。だが結局何も起こらなかった。今では私は、土地の所有者と会えなかったことを、ちょっぴり後悔している。ジュリアーノのティッシュペーパーの置手紙に加えて、私は実は何本かのコニャックを用意していた。遠くに旅行する時はいつも持っていくコニャックだ。とにかく、トカンチンス河の傍のこの採集地点は、我々の大旅行のルートの北端であった。

大事件が起こる!

これらの地点はあまり成果があがりそうになかったので、我々は早々と立ち去る。目的地はフォルモーソ・ド・アラグイア(Formoso do Araguia)だ。 午後に到着したフォルモーソを横切って何キロか行ったところで、ジュリアーノは一部が浸水した牧草地を見つけて止まる。プレシオレビアスspとピトゥーナ・コンパクタが採れた。急いで我々はこのポイントを去り、牧草地の中心へ向かって進んでいく。この道は2メートルほど高架になっていて、右には見渡す限り水田が広がっている。卵生メダカの採集には絶望的だ!
この水田を15キロほど進んだところで、風景がようやく変わった。自動車道の脇には2メートルの高さの垣が作られている。垣の間の抜け穴からは広大な浸水した牧草地が見えた。この水浸しの牧草地では、ところどころに分厚い草が生い茂っている。ジュリアーノは用意を整えて、垣の向こうへ消えていった。もう夕方の5時半。私は苦労して水のほとりに近づき、水質を測る。
水辺には葦が生い茂っていて、私が計測した部分は直接太陽光を受けない場所だった。だがそれにもかかわらず水温は31.5度。導電率は9μs、PH5。水辺を再びよじのぼって車に戻る。
太陽は傾いてきているにもかかわらず、熱気は息苦しい程だ。道路に停めた車でたった一人で待っていた私は、次第に退屈し始めた。45分も経った頃、ジュリアーノがここの沼は非常に深いと叫んで知らせた。彼がどこにいるのか見えない。不安になる私。まさにその瞬間、静寂を破る叫び声が聴こえてきた。Didier HELP ME −私も叫ぶ:Juliano, IS GOOD?−また彼が叫ぶのが聴こえる:HELP ME, HELP ME!−そして何も聴こえなくなった。完全な静寂。もはや私が何を叫んでもジュリアーノは答えなかった。沼の泥に足をとられて溺れたのだろうか?それとも毒蛇に襲われたのだろうか?
装備を整える間もなく、私は垣を越えて、生暖かい沼へ入っていった。大きなイバラの棘で足をすりむきながら、少し見晴らしのいい浸水した牧草地へ出た。腰のベルトまで水の深さがある。一歩前へ進むたびに水深が深くなる。ついに水深は胸まで達した。この状況では遠くまで見ることが出来ない。ジュリアーノは相変わらず姿を見せないままだ。
ようやく水深は再び浅くなり、私は10センチ程のところを歩いて行った。私はついにジュリアーノを発見した。彼は1メートル程の葦が茂ったところで採集していた。「HELP ME」は私に吉報を知らせるためのものだったのである。
この2003年2月3日は、我々がこれまで採集していない卵生メダカが見つかった日となった。それにしても何という珍しいメダカ、水槽の中ではまず見れないメダカたちだったことだろう!
プレシオレビアスsp、Trigonectus rubromarginatus、スペクトロレビアス・セミオケラータス、シンプソニクティス・コスタイ、マラテコアラ・ラコルティ、ピトゥーナ・コンパクタ・・ 日は急激に翳り始めたので、急いで採集を中断し、フォルモーソ・ド・アラグイアで夜を過ごすことにする。明日の朝は夜明けから採集再開だ。

フォルモーソの続き

翌朝は再び例の牧草地に向かう。どうもこの道はほとんど人が通らないようだ。道を走っていると、大きなトカゲが数メートル先を横切って消えていく。牧草地にはシラサギやアオサギが見える。木のてっぺんではオウムが見張りをしている。どうも昨晩オオアリクイが車にひかれたらしい。その死体が道に横たわっていて、空ではちょうどそのあたりにハゲタカが旋回していた。
朝は自然を観察するのに格好の時間だ。輝きはいつも以上に美しく、大地も緑も香気を放っている。これらは日中になると消えてしまうものである。8時きっかりに我々は前日の採集ポイントに到着した。今回は私も装備を整えて採集をするつもりだ。だが実はこれが私にとっては大問題なのである。私は片足が不自由で、ブーツを着用することが出来ないのだ。
二度目の採集は前日よりは静かなものだった。自然を観察しながら水質を測定することにしよう。この朝の気温は8時で25度。水中では27度。9時にはもう28度に上昇している。どこでもそうだが、空中と水中ではほとんど温度に差はない。水はこのうえなく透明で、やや琥珀色をしている。どこにも水草が繁茂していて、特に水深が浅いところではびっしりと生えている。我々が調査した湿地は80メートル×50メートルの広さで、その深さはまちまちだ。岸辺の最も深いところが1.5から2メートル。大半は10センチから20センチ。我々が採集をした溝のようになっている場所で40センチから50センチ。
ジュリアーノが何種類から非年魚を採集した。私は小さなホウネンエビを捕まえる。我々が採集した卵生メダカの大半は稚魚だった。この非常に特殊なビオトープは、我々がこれまで見た、あるいはこれから見ることになったどんな沼にも似ていなかった。

東端で

トカンチンスの沼を去って、再びサン・フランシスコのそれへ戻る。 南から北へ流れる二つの大きな川が、約500キロの間隔で平行に流れている。この河は海に流れる直前で大きく東へカーブして大西洋に流れ込むのである。トカンチンスからバイーア州へ入ると、土壌はもっと豊かになる。多国籍企業がここでは広大な農業事業を展開していて、40キロも延々と大豆畑が続いているところもあった。

バイーア州の最初の沼

2月5日金曜。ジュリアーノは9時にはBom Jesus da Lapaの近くの沼でもう作業を始めている。15分でシノレビアスが一匹、シンプソニクティスが一匹採れただけで、あまりこの沼は面白くない。水は泥だらけでPH7、μs200である。私はプランクトン・ネットで大量のミジンコを採る。

二つの謎めいた沼

引き続き南東のグアナンビ方面へ向かう。ここでは愛好家の間で有名な素晴らしいシンプソニクティス・フルミナンティスが住んでいるのである。この地方の沼は標高500メートルのところにあるのが特徴だ。ここは我々が採集したポイントで最も標高の高い場所にあった。グアナンビまで4キロのところで車を停めて、牛が5・6頭いる沼を調査する。小川が静かに森の間を流れていて、13時で水温が31度。PH7、導電率μs75だ。ジュリアーノがものすごく大きく、ものすごく年老いたシンプソニクティスを採集して戻ってくる。恐らくギゾルフィだ!彼が魚を採集した沼で水質を測る。先ほど水質を測った小川から20メートルしか離れていない沼だ。ところが!驚くなかれ導電率は1250、PH7.5である!
10キロ以内の地点で私は何度か水質検査をしたが、導電率はすべてμs50以下だった。しかも見たところ石灰などはまったく見当たらない土壌だ。それどころかところどころ花崗岩が露出したりしている。なぜこの沼だけこんなに導電率が高いのか?恐らく家畜の糞尿がこの水質の犯人なのだ!
だがもう一つの疑問が残る。なぜこの沼だけこんなに年老いた魚がいたのか?この年は雨季が遅れたせいで、我々が採集したのは雨季の初期だったのだ。
何はともあれ我々はグアナンビの調査を続ける。このあたりはかなり乾燥している印象だ。リオ・サンフランシスコ盆地を西へ100キロ進んで調査したが、あまり成果は得られなかった。ジュリアーノはイタカランビの方へ行ってみようという。この提案は私をとても喜ばせた。ここでは私が二年来飼育している素晴らしい魚の住んでいる沼を間近に見ることが出来るはずだから。有名なシンプソニクティス・マグニフィカスである!

難ルート

時間節約のためにジュリアーノは近道をする。渡し舟で河を越え、カリンハンハ(Carinhanha)に着き、それからしばらく割によい道路を、次にこの国では当たり前のでこぼこだらけの道を、次にチェラドでは既に何度も走った悪路を、そして遂に巨大なわだちだらけの最悪の道を走ることになる。
我々の頑丈なプジョー206の命運はキャプテンの腕にかかっている。つまりわだちのてっぺんぎりぎりのところを走り、次の瞬間には波の方向を変えるようなテクニックが必要なのだ。車体はあちこちにぶつかり、エンジンは吼え、クラッチは真っ赤になり、車輪は空転し、ショックアブソーバーはミシミシ音をたてる。我々の車は少しずつ前進し、私はそれにしがみつく。この道を走るのはほとんど不可能に思えてくる。遂に小さなプジョーは座礁してしまった。胴体が地面に乗り上げ、四つのタイヤは赤土の中に埋まってしまったのだ。我々の影は長くなり、ますます蒸し暑くなってくる。一台の四輪駆動と一台の非常に車高の高いトラックがやってきた。運転手たちが我々を助けてくれる。30分後に我々のプジョーはまた走り始める。
我々の救世主たちが教えてくれた情報は決して吉報とは言えなかった。この道はあと100キロは延々とこの調子だと言うのである!我々はまだほんの少し走ったにすぎず、目的地にたどりつけるチャンスはほとんどないように思える。何キロか走って、今度は左の前輪が切り株にあたって裂けてパンクする。我々は修理しようとするがなかなかうまくいかない。何キロか走って、再び車は停止する。今度は動力系の故障だ。クラッチが効かなくなってしまったのだ。村までまだ30キロ。先が思いやられる。だが幸いにして、エンジンを冷やすと、またクラッチは動き始めた。幸運にも左手に垂直に折れる道が現れた。この道のおかげで、もっとまともな道路に入ることが出来た。ジュリアーノは「次は絶対に四輪駆動で来る!」と誓っている。2003年2月6日午前1時、大騒動の後、ようやくマンガ(Manga)に到着。ミナス・ジェライス州に戻ってきた。

最後の行程

遅く寝て早く起床し、イタカランビを目指す。100メートルごと位の間隔で崖の植物の間から岩が見えている。どうみてもこれは石灰だ!実際、後で知ったのだが、このあたりの土地は石灰質らしい。だが沼の水質を測ってもミネラルはまったく検出されない。
イタカランビの入り口の森の間に、道に隣接していくつか沼がある。ジュリアーノは車を停めそこへ向かう。彼はこの場所を予め知っていたのだ。ここで彼はマグニフィカスを採集したことがあるという。朝8時半の気温は25度、水温は27度。PH6-6.5、導電率μs40-70。残念ながら魚はまったくかからない。何匹かホウネンエビが採れただけだ。N. RabetによればこれはDendrocephalus brasiliensis Pesta, 1921で、ミナス・ジェライス州では二例目だという。

終わりに

この旅行は、まさしく私が望んでいたものであった。この旅から戻って一年、再びそこで採集をしたいという夢は、大きくなるばかりである。次は大西洋に接した地域で採集をしてみたいものだ。ここにも雨季のみに出来る沼があり、まだほとんど調査されていないのだ!あの旅を思い出すと、「終わりに」と書くのが悲しくなるほどである。