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ノソサファリ MT2003

著   フィリッペトーレ 氏(APK50)
翻訳  酒井道郎 氏(KCJ007,APK139)
原文:フィリッペ トーレ(APK50)
現場写真:トーレ氏とバンダ夫人(APK84)
魚の写真:トーレ氏、バスコ ゴメス(APK03),フェルナンド ロドリゲス(APK59)

1. イントロダクション

2002年の夏、私は妻にノトブランキウス採集旅行はアフリカを知る絶好の機会で有ると提案した。幸いにも彼女は、ほとんど即座に同意してくれ、我々は準備を開始した。6ヶ月以上の間、地図を調べ、コンタクト先を確立し、旅行を成功させる為に必要と判断されるあらゆる物を集めた。目的地として選んだのはモザンビークのベイラ地域であり、“目標”はその地域に生息するN.ラコビー(N.rachovii)とN.オルトノートゥス(N.orthonotus)であった。

最終的に2003年4月4日、我々夫婦はノトブランキウス捕獲を試みるべくモザンピークに向けて出発した。モザンビーク迄の飛行機の旅は10時間掛かり、極端に疲れ退屈であったが、ベイラ地域の新しいロケ付きノトブランキウスをポルトガルに持ち帰りたいと言う願望は失わなかった。ベイラはモザンビーク第二の大きくて重要な都市でモザンピークの中央に位置し、インド洋に面している。ベイラにはプンゴエ川(Pungoe)、ブズィ(Buzi)川とチベベ(Chiveve)川が流れており、チベベは小川で同じ市の中で生まれ死んで行く。飛行機の中で、ロケーションを示す記号について考え、“MT”を使う事にした。“M”はモザンビークを“T”はトーレを意味する。最近の東アフリカでの採集では、採集魚の記号に採集者の頭文字をあまり入れない傾向にあるように思われる。

マプートに到着し、そこで我々をベイラに運ぶ飛行機に乗り換えなければならなかった。マプートからベイラまでの旅は比較的早く1時間で到着した。ベイラに向けて乗込む前に、我々の席がキャンセルされてしまって居て無いと言う話で、少々問題を抱えた。数時間後、最終的には、親切にも我々を飛行機に“押し込む”ことに成功したマプート空港のTAP(ポルトガル航空)責任者のおかげで何とか問題は解決した。

ベイラに到着したら既にほとんど夜で、空は雲で覆われ、そのおかげで、出発時のポルトガルの倍では有ったが温度は下がり摂氏35度であった。ポルトガルを出発してから15時間経っており、我々は恐ろしく疲労していた。
飛行場でタクシー(この表現は非常に寛大なもので、実際はまともなガラスは二枚のみ、他の部分も大変ひどかった)を拾い、ベイラ滞在中定宿としたオテル・エムバイシャドール(Hotel Embaixador=英語ではホテル・アンバサダー)に向かった。メダカ採集旅行は初めてであり、アフリカ訪問も大した経験が無いので、滞在中は夫婦ともに同じホテル、同じ都市にとどまり、そこをベースに、この地域にはいくらでも有る水のある地域への短い旅行をおこなう事にした。

ベイラは巨大な廃墟のように見え、飢えた顔つきの、みすぼらしい服を着た無数の人が裸足で徘徊していたので、市内に入った後、(多分疲労と空腹が原因かも知れないが)私は失望と欲求不満に襲われた。私の最悪の想像では、いずれベイラは完全な崩壊状態に陥るであろうと思われた。女房にはバグダッドに到着したみたいだと皮肉を言うまでになっていた。
ホテルに到着し、食事を取り、その後眠りについた。我々の部屋は幸いな事にエヤコンが 付いていた。もし反対に付いてなければ、あれほど暑い所では休む事も出来なかったであろう。部屋にはエヤコンの他に、電気をつけると部屋中自由奔放に走り廻る、憎めないアブラムシも居た。

宿泊したアンバサダー・ホテルのベランダから(写真:著者撮影)
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